またしても、いつものネタで少しく恐縮だが、アドセンス審査を通過するた
めに今やもっとも役に立たない情報源として有名なものになりつつあるグー
グル公式のアドセンス・ヘルプ・フォーラムで、またぞろ奇っ怪な都市伝説
のいち潮流が生まれつつあるのを観て、筆を取る次第だ。
今回採りあげるそのいち潮流は概ね次のような言説に代表されるものだ ー
何かをレヴューする際にはオリジナリティと説得力を持たせるために自分で
撮った写真はもちろん、正確な値段、使用や実験によって採ったデータ群、
店・施設なら正確な所番地やアクセス経路やグーグル・マップ、等々を載せ
なさい
ー これは、一見正しそうで実は正しくない馬鹿げた物言いだ。
あるいは、卵を割るに破城槌を以ってするような、ブロガーというより雑誌
記者やライターやウェブ・ライターが給与/報酬と経費をもらってリーズナブ
ルな職業/生計手段としてならやってもいいというレヴェルの仕事の規範であ
る。
たとえば牛丼屋食べ比べレヴューみたいなことを、たかが一介の個人素人ブ
ロガーが上の物言いどおりにやっていたら、1エントリを物すのに何日に亘っ
ての十何時間と何千円がかかるだろうか?
確かに、それだけの手間暇費用をかけてのエントリを毎回物せるのであれば、
アドセンス審査ごときは易々と通るかもしれないが、その代わりそのブロガー
は月にほんの1000円ぽっちのアドセンス報酬のために5000円も8000円もの
費用を遣うことになり、そしてもちろんやればやるだけ損というのが嫌にな
りブログもアドセンスもやめてしまうことだろう。
上記のようなズレたアドヴァイスを放つ回答者、そしてそんなものをありが
たがって歓迎する質問者というのは、誰もが自分の生、自分の経験、自分の
見識・見解・知見というものを自ら軽視し卑下しているという現行日本社会
の貧相さの表れである。
たとえ「特別な人間」でなかったとしても、あらゆる人間が、何かを見れば
何か書けることをひとつやふたつ思い付けるはずなのに。
たとえばこの私は、たとえば「牛丼屋」というトピックに関してなら、以下
のようなエッセイを物すことだろう ー
先日、ひょんなことがきっかけとなって、ウェブで調べて読んでみたいと思うことがひとつ生じた。
「吉野家の牛丼のケチケチ満腹充実注文メソッド」とでも言うべきものについてだ。
それを私は、推定 ’98年ごろ、先般廃刊が発表された『ロッド&リール』というバス釣り雑誌の1記事 ー 「三匹が行く」という連載企画のある記事でテッペイというライターのおもしろ雑談/ミニ・グラフ・コーナーとして最初に読んだのだった。
それは概ね次のようなメソッドだ。
・牛丼の特盛・白ご飯・生卵・お新香を頼む
・まず、特盛の牛丼をご飯少なめ残し肉多め残しの割合で1/3ほど食べ
・多めに残した肉と溶いた生卵ですき焼き風に白ご飯を1/2ほど食べ
・適宜、白ご飯を醤油を垂らした生卵やお新香で食べ
・いよいよ少なくなった白ご飯を目減りした特盛牛丼に投入し
・肉多めご飯多めとなった特盛牛丼を適宜プレーンに食べ
・肉少なめご飯多めになった時点で残った溶き卵を投入し、牛丼+卵かけご飯の掛け合わせとして食べ
・そこに残りのお新香や無料の紅ショウガを適宜組み合わせつつフィニッシュ
こうすると、2杯の牛丼並や特盛の大盛りやを量でも質(ヴァラエティ)でも遥かに凌ぎ、かつ安上がり、という充実の1食が楽しめる ー というのである。
こうした記事、こうしたおもしろ雑談は、それ以降の「誰でもウェブ発信時代」の現在であれば、「プロ」「アマ」問わず、企業体/個人問わず、何十/何百者が何十/何百ページで物せるはずのものである。
だが、私が先日、適宜検索から探して(もちろんキャッシュで)読んだ記事の数々、無慮30者による無慮34ページほどは、いずれも到底かのテッペイ氏の言説/コーナーに及ばないできのものばかりだった。
そのほとんどは
・そもそも日記代わりの10行に満たない雑記である
・カネを遣いすぎている(いくらでもカネを掛けていいのなら誰にでも「充実した1食」は容易)
・異なる各々の吉野家店舗/店員の対応上の融通の多寡に依存しており再現性が薄い
・牛丼の味の変化ヴァリエーションをロクに追求していず、あるいはその意図説明に欠ける
・大きすぎる現場写真に依拠しすぎで文面が薄く浅く、情趣に欠け感情移入誘発力が低い
等々の理由から、私のうっすらした記憶にあるテッペイ氏の言説の思い出程度にすら劣るものだった。
こうした体たらくは、多くが金儲け(への幻想)のために
・書きたくもないことをいやいや書いている
・書くことを元々持っていないために、「ネタ探し」の段階で見つけた他人の二番煎じ三番煎じを粗雑に安易に再現して「記事」とし、それで足れりとしている
ゆえに生じている。
今やウェブでは、どんなに「庶民」でどんなに「教養レヴェル低」であっても扱えるはずのこうしたネタ記事ですら満足に読めない時代になったのだろう。
さて。
上記の「たとえば」のエッセイのでき、それが面白いかどうか、有益かどう
かが重要なのではない。
私にとってはアドリブのでっちあげの「たとえば」程度のエッセイのシミュ
レーションであってもこのくらいの分量・熱量は朝飯前だというタダの例示
にすぎない。
重要なのは、上のエッセイを読んでいる最中のあなたが、「こういう文章だ
ったら自分にも容易に、しかも見返り抜きでも楽しんで書けそうだし、さっ
そくひとつふたつ書くことが思い浮かんだぞ」と感じたか、それとも「こん
なにまでみっちり文章だけを書かなきゃいけないんだったら、見返りなしで
は絶対に書きたくないし、見返りがあるとしても文を書くことはできるだけ
御免蒙って手抜きをしたい」と感じたか、だ。
人は、人であれば、人でありさえすれば、何を見ても何かを思いだし、何か
を思いだせば何か書けることのひとつやふたつは思いつく。
わざわざ鵜の目鷹の目で、知りもしないし興味もないし詳しくもないことを
ウェブを漁って素材を集めて書かなければ、と考えるからこそ、どうでもい
いし既知のものである客観的事実を十番煎じ千番煎じで羅列したり、グーグ
ル・マップを埋め込んでみたり、5行10行の文章に劣る情報価値しかない画像
をでかでかと何枚も貼り付けてみたり、といった無用で無益で無駄な労力を
要することになり、その一方で肝心の「本文」はないがしろとなってしまう
のだ。
何を見ても何も思いださず、書けることのひとつも思いつかない ー それは
何も「悪いこと」ではないのだから、精神的健康や時間の浪費の防止のため
にも、「今アフィリエイトから完全に背を向け、以降の一生見向きもしない」
という選択は、99.9%ほどの「アフィ志望者」には実は妥当で合理的な選択
であろう。


プライバシー ポリシー
COMMENTS